「ふじ」を生んだりんごの新品種の育種試験は、1939年(昭和14年)から開始されました。開始から3年間で21品種から64の組み合わせ、13,775本の実生(みしょう、小さな木の意)が生まれましたが、この実生が花を咲かせ始めたのは1947年(昭和22年)のこと。それも、48個の花から実際の果実になったものはわずか10個。その年に初めて行われた収穫調査も、大きな成果を得ることができませんでした。今や国内生産量ナンバーワンの「ふじ」が誕生するまでの先人たちの努力の歴史をご紹介します。
育種試験
りんごの品種改良は、おしべから採った花粉を別の品種のめしべに付着させる「交雑育種」という方法が行われています。交配して生まれた果実から採った種子を植え付け、生えてきた小さな木(実生)を育て、その実生や果実の形・色・味・貯蔵力、木の性質や病害虫に対する強さや実際の栽培のしやすさなど優秀なものを選び、さらにその中から選ばれた候補を何年も試験栽培したのち、新品種として認められ、名前が付けられて登録となります。
このように、りんごの育種は、気が遠くなるような長い時間と根気がいる作業の繰り返しで、新品種が誕生するまでに20年以上を要する場合があります。実際、「ふじ」も交配から品種登録まで23年の月日を要しました。
「ふじ」の誕生
1939年(昭和14年)に開始された育種試験の中で、「デリシャス」の花の花粉を「国光」の花のめしべに交配したものから、後に「ふじ」となる品種が生まれました。この年のこの組み合わせからは274個の果実を収穫し、翌年この果実から得られた2004粒の種子を植え付け、968本の実生が育ち、畑に植え付けられました。その実生が初めて実をつけたのは1951年(昭和26年)のことでした。そこから、たくさんの試験検討がなされ、1958年(昭和33年)に「東北7号」として選抜されたものが後の「ふじ」。「東北7号」は、研究機関だけでなくりんご農家でも試験的栽培が進められるほどに大きな注目を集め、普及が進んでいきました。
「ふじ」と命名されたのは1962年(昭和37年)3月。全国りんご協議会名称選考会にて正式に命名されました。同年4月に「りんご農林1号」として品種登録され、一躍脚光を浴びました。1982年(昭和57年)にはデリシャス系を抜いて生産高日本一となり、「ふじ」は名実ともに日本一のりんごに成長しました。
「ふじ」の名前は、生まれ故郷の「藤崎町」と日本一の山「富士山」、ミス日本で女優の「山本富士子」にちなんでいるという逸話があります。
「ふじ」発祥の地
「ふじ」を生んだ園芸試験場は、1950年(昭和25年)に「農林省東北農業試験場園芸部」に組織替えされ、盛岡市に移転統合されることとなりました。1959年(昭和34年)から3年計画で移転の作業が進められ、1962年(昭和37年)に移転を終わり、3月に閉場式が行われて、24年間の歴史を閉じました。試験場にあった「ふじの原木」も、盛岡市に移転されています。
現在、園芸試験場のあった藤崎町大字藤崎字下袋の約18.5ヘクタールの広大な土地は弘前大学農学生命科学部附属生物共生教育センター藤崎農場や県立弘前実業高等学校藤崎校舎、町営住宅のある団地となっています。弘前実業高等学校藤崎校舎の敷地には盛岡市に移転された「ふじの原木」とおなじ遺伝子をもつ原木が植えられた「藤崎町ふじ原木公園」があり、次世代に遺すべき「ふじ」誕生の地のシンボルとして、現在もなお大切に育てられています。